以下、『BE-COM4月号 vol.258』 (2014.4.1 BE・COMときわ通信発行)に掲載より引用
【部活動の今】
部活動と聞くと、青春時代や学校の思い出と重なる方も多いのではないだろうか。甲子園での球児たちの汗と涙、スラムダンクなどの少年漫画、感動のドラマが想像される。
一方で、体罰、いじめ、行き過ぎた競争主義など、否定的な面がメディアでも取り上げられ、問題視されている。
教育論議になると、「先生から殴られたけれど、そのお陰で今の自分がある」、「顧問の教員の家でごちそうになった」などなど、様々な体験談を耳にする。
しかし、同じ指導でも受け止められ方は、人によって違う。時代や状況も変わってきている。体罰、行き過ぎた指導、いじめ、セクハラなどはあってはならない。
交通事故もあってはならないので、車で教員が生徒を送ったり、保護者が他の子どもを車で送ったりすることさえ、原則的には難しくなった。良かれと思って行ったことでも、責任を問われる。
「部活動の顧問をしていると、土日もなく、 家庭も顧みず、慢性的な多忙感、ゆとりのない生活を余儀なくされることも少なくない。授業の充実に向けての教材研究の時間も取りにくい」という校長からの意見もあるとのこと。
部活動は、教員の生きがいにもなりうる反面、教員の過重な負担でもある。
【子どもの第三の居場所】
日本の児童・生徒は、学校中心の生活を送っていると指摘される(サラリーマンが会社中心の生活中心の生活と言われるように)。学校での人間関係や序列が、すべての生活に影響してしまう。いじめが発生した場合には、逃げ場がなくなり、深刻化してしまう。
そこで、近所のおじさん・おばさんや大学生といったナナメの関係や、学校や家庭とは違う第三の居場所の存在が注目されている。
海外では、地域のクラブチームや文化サークルなどが、第三の居場所として機能している。子どもだけではなく、大人と一緒に活動し、多様な仲間の中で活動している。部活動とは違い、3年間毎日続けなければならないといった重圧はない。
【長野県・部活動の社会教育化】
長野県では、部活動のあり方を大きく変えようとしている。昨年11月、「朝練習は睡眠不足を招き成長に弊害がある」として原則やめるべきだとする報告書をまとめた。
また、専門外の顧問への支援や外部指導者との連携を提案している。まだ改革は道半ばある。しかし、これらの改革は、全国に部活動のあり方について論議を巻き起こし、注目を集めている。
【学校教育としての意義】
「最近、学校教育について騒がれていますが、日本の部活動は世界に誇る教育だと思いますよ」
これは、海外で出会った日本人実業家の言葉である。彼は、野球部出身であった。
私は高校教諭だったので、部活動の指導も受け持った。部活動の目的は、生徒、部、学校、地域、時代などによって違う。全国大会で優勝することを目指していても、指導者にとっては、全国大会優勝は一つの過程に過ぎない。最終目標は生徒自身の成長である。
仲間、先輩・後輩、顧問、好敵手、保護者を筆頭に応援してくださる人たちとの人間関係。苦しみ、悲しみ、怒り、そして喜び。競技を通しての実体験。これらは、いくら本を読んでも、話を聞いても得られないものである。
部活動は、学習指導要領に定められた学校教育である。スポーツや文化に親しみ,学習意欲の向上や責任感,連帯感を育て、教育課程と関連を図っていくことが求められている。そして、何より人間形成に関わる生活指導にもなっている。
【学校の内と外の垣根をなくす】
ここまで、部活動の意義と課題をみてきた。教員の負担や生徒の居場所を考えれば、長野モデルのように部活動を地域の指導者の手に委ね、社会教育として地域に開いていくことは有効である。しかし、生活指導や教育課程と連携している部活動の教育的意義も重要だ。地域の活動だったら参加しなかったかもしれないが、学校だからこそ参加したという可能性は高い。
部活動を学校の内に置くか、外に置くかと考えるのではなく、両者の良さを活かす事例もある。たとえば、外部指導者制度では、授業や部活動の指導に学校外の人材を活用している。柏市では、約80名の外部指導者が市内40校に派遣され、学校現場では重宝がられている。それでもこの制度は、学校教育に外部の方が協力しているという形である。
学校の内や外という考えを取り払ってみよう。地域に開かれた学校のあり方を考えてくことから、部活動のあり方が見えてくるのではないだろうか。
地域の方々に部活動をサポートしてもらう。地域のスポーツクラブや文化サークルを学校に取り込み、地域の団体に学校は活動場所を提供する。たとえば、定年退職したシニアに依頼し、これまで培ってきた自身の経験や知識を生徒に伝えてもらう。すでに実践されたシニアからは、若者と接することで若返りそうだとお聞きした。これからの一つの可能性ではないかと、私は考えている。