以下、『BE-COM2月号 vol.280』 (2016.2.1 BE・COMときわ通信発行)に掲載
【芳野金陵展、2月末まで開催】
沼南庁舎に併設されている柏市郷土資料室では、企画展示「金陵~近代日本を見すえた松ヶ崎の大儒~」が平成28年2月28日まで開催されている。二松学舎大学の九段と柏の両キャンパスでも「芳野金陵と幕末日本の儒学」展が開催された。柏市と二松学舎大学の共催の企画だった。市内に大学があるということは有難いことで、こういった連携は大切にし、もっと地域と大学との協力が深まればと思う。
時代は、幕末から明治維新期。国内の財政は厳しく、政治制度もほころび、海外からの圧力が激しい時代にあり、学問は何ができるのか?そんな問いに応えてきた儒学者である芳野金陵(1803~1878年)の生き様を知ることができた。
芳野金陵は、田中藩の改革を実行し、幕末の国防問題や学問所改革の提言を行っており、学者だけではない活躍が見られる。明治維新後も、新政府の大学の教授に。幕府時代から明治新政府への移行期に、一貫して「官学」の教官を務めた人物として、歴史上で重要な存在である。
【金陵の生涯】
芳野金陵は、松ケ崎村(現・柏市松ケ崎)の医者・芳野南山の次男として生まれる。(ちなみに、長男の子孫が医業を続け、現在の巻石堂病院となる。)
22歳で、江戸に出て、亀田綾瀬から儒学を学んだ。綾瀬は、関宿藩の儒官を勤めていた。25歳で、浅草に塾を開く。論語や孟子等の古典を中心に教え、塾での教授は20年にも及んだ。
46歳で、田中藩の儒官となり、正意の七男・正訥(まさもり)の教育係となる。田中藩の歴代藩主のほとんどは幕閣入りを果たしており、江戸幕府で重きを置く家柄であったと言える。
田中藩は、現在の静岡県藤枝市に位置する。柏市北西部は田中と呼ばれるが、これは江戸時代、柏市内に多くの飛び地の領地を持ち、船戸村と藤心村それぞれに代官所を設置していた本多氏の駿河国田中藩に由来する。金陵の出身地である松ヶ崎村も田中本多藩領に含まれていた。
金陵は、正訥を後継ぎとして擁立することに成功し、藩内での立場が向上した。金陵は、窮乏だった藩の財政改革に取り組み、藩校での文武を奨励して人材育成に取り組んだ。藩主となった本多正訥は、博学で、学問所奉行となる。金陵は、藩主同士の情報伝達の役割も果たしていたようだ。
金陵は、安井息軒と塩谷宕陰とともに文久の三博士と称され、幕府直轄の学問所「昌平坂学問所」の儒官として抜擢された。61歳であった。
儒学といっても、幕末動乱の現実への解決策が求められるようになっていた。金陵は、海外事情にも通じ、国防について幕府に意見を述べている。機密扱いだった「蝦夷図」(北海道の地図)の写しが芳野家から発見され、金陵が幕府の重要なポストにいたことが想像できる。
水戸の藤田東湖や福井の松平春獄ら多くの有力者と交流している。息子の芳野桜陰は、水戸藩の過激派である天狗党の戦いに加わり、水戸の獄に繋がれている。
長州の久坂玄瑞も金陵門下生として学んでいた。維新後、久坂の親友である楫取(かとり)素彦から依頼があった。脱藩などで罪人扱いされたままだった久坂の名誉回復して欲しいというので、金陵は伝記「久坂通武伝」を執筆している。(NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では大沢たかおが、楫取素彦を演じていましたね)
維新後は、新政府の昌平学校、大学校、大学の教授となる。明治2年に大学が廃校となり、金陵は免官となった。洋学が取り入れられ、漢学が公的機関から消滅した。
大学退官後は、大塚に隠居して余生を送る。子弟の教育にもあたった。柏からの教え子も取っていることが史料から分かる。大塚では精力的に著述生活を送る。大塚に3万坪を購入し、開墾。明治11(1878)年金陵没、享年77歳。
後継ぎである四男・芳野世経は、教育者であり、第1回衆議院議員選挙によって選ばれた衆議院議員。1901年、高等師範学校(東京教育大、現在の筑波大)の改築のため、自宅の敷地2万2千坪を提供している。
【市内の史料を守り、歴史を発信】
これまで私は議会からも、紛失してしまう可能性のある歴史史料を、後世に伝えられるよう提案してきた。様々な事情で、これまで伝えられてきた古文書が紛失してしまっていることが、全国各地で問題となっている。個人の家に伝わる文書ではあっても、公共性の高いものでもある。個人任せではなく、資料館や図書館、大学などで公的に管理し、公表できるものは公表し、未来に伝えていくことが必要となっている。
柏市は、千葉県内でも随一の史料を保管しており、その点では誇るべき自治体である。柏市には、歴史がないと言う人もいるが、そんなことはないのだ。
管理している資料整理を進めていくことは課題だ。柏市では、歴史を学ぶ市民の方々と共に、古文書の整理に取り組んできた点が、評価されている。
今回、芳野家から史料が寄贈されたことにより、昌平坂学問所など幕末から明治にかけての教育制度や、幕末の学問の動向が明らかになった。文書が残されるからこそ、歴史が伝えられる。死蔵されることなく、公に保存され、研究者によって活用されてくことになり、次の世代に引き継がれていくことになった。
本来、芳野金陵は、もっと注目されるべき人物である。史料が調査されることになり、今後は評価されていくことになるだろう。柏の郷土の歴史のみならず、日本史の中で芳野金陵が位置づけられる。今後、幕末のドラマに芳野金陵先生が登場する機会も出てくるかもしれません。
柏まちなかカレッジ学長 山下洋輔