以下、『BE-COM1月号 vol.243』 (2013.1.1 BE・COMときわ通信発行)に掲載より引用
【愛されていた江戸の子ども】
江戸時代末期の開国後、来日した外国人は、日本が「子どもの楽園」であると一様に驚いている。たとえば、モースは『日本その日その日』で「世界中で日本ほど子どもが親切に取り扱われ、子どものために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子どもたちは朝から晩まで幸福らしい…そして、祭礼などでは、いかなる時にでも大人が子どもと一緒になって遊ぶ」と記している。
江戸時代は、家族形態も直系の親子を単位とする小家族が一般的となり、それまで以上に、子どもは家族の愛情のなかで育てられるようになっていた。それまで公家や武家の儀礼であった子どもの成長を祝う行事が、民間にも普及した。子どもを大切に育てるための育児書や教育書も数多く刊行された。遊びの世界でも、江戸中期から玩具が種類・数ともに増え、子ども向けの本も出版されて、子どもの世界を豊かに彩ったのである。
【多様な教育】
江戸時代中期になると、社会経済の仕組みが変化し、政治改革が実施される。その改革の担い手を育成するためもあり、学校が設立された。幕府は、昌平坂学問所を設立し、朱子学を幕府の学問に定めた。各藩でも、藩士を教育する藩校などを設置し、学問を奨励した。
私塾では、儒学、国学、政治経済、経営、商業、医学、科学技術などが専門的に学ばれ、社会に大きな影響を与えることになった。大阪商人の出資で設立された懐徳堂。蘭学・西洋思想を学び、近代化の原動力となった適塾。高杉晋作など新時代を切り拓く人物を輩出した吉田松陰の松下村塾。この他にも、個性的で、質の高い、無数の私塾が存在した。
庶民に広まった教育では、儒教・仏教・神道を融合した心学舎や、二宮尊徳の教えで農村の復興運動を展開した報徳社があげられる。
地域コミュニティによる青少年教育システムも興味深い。たとえば、薩摩では、「郷中教育」といって、年長者は年少者を指導すること、年少者は年長者を尊敬すること、負けるな、嘘をつくな、弱い者をいじめるな、といった人として生きていくために必要なことを学び合った。
初等教育を終えた庶民は、サークルを作って、学び合う場をもった。この柏では、和算(日本で独自に発達した数学)サークルが盛んだった。花野井の香取神社には、地域の算術グループが奉納した算額が残されている。
【寺子屋教育】
町人の活発な経済活動の展開で、職人や商人に読み書きや計算の素養が必要とされるようになった。その結果、庶民教育への関心が高まり、庶民教育の場として寺子屋が普及した。多くの子どもたちは、六~十歳を過ぎる頃までの間に「読み・書き・そろばん」の初等教育を身につけ、奉公や修行に出た。幕末期の識字率が非常に高かったのは、寺子屋教育の役割に負うところが大きかったといわれている。
寺子屋という名称は、かつて、寺で子どもの教育が行われていた名残であり、必ずしも寺を教室にしているわけではない。幕末期の江戸には、寺子屋は約千五百あった。
師匠になるための免許はなかった。人格や教え方の優れた寺子屋に、生徒は集まった。三十から二百人ほどの生徒を持ったそうだ。男女別学の形を取って、夫婦で教える師匠もいた。
教えるということは神聖な行為と考えられ、師匠がお金を要求することはなかった。親は、お礼という形で、入門料や授業料を支払った。毎月の月謝のほかに、五節句、中元・歳暮、畳量なども納めた。納めなくても、師匠は催促しなかった。
ただ、机などの学用品は自分でそろえなければならなかった。庶民の親にとっては、かなりの負担だったが、子どもの将来のためにと、家計をやりくりしてそろえた。
教科書は約七千種類発行されていた。千種類は女子教育専門であった。地域の特性に合わせ、商売、職人、農業などの教科書が用いられた。
【地域が支えた教育】
江戸の人は、「子は宝」と言い、子どもの誕生を地域ぐるみで、祝い、大切に育てようとした。今日のように医学が発達しておらず、産後、亡くなってしまう女性も多く、流行病で命を落とす子が多かった背景もある。乳が多く出る女性は、母のない子にも飲ませた。しつけも、地域の大人が見守った。
江戸の教育の明るい面だけが注目されがちである。その裏では、病死、捨て子、堕胎によって命を落とす子どもたちが存在した。子どもを取り巻く環境は、厳しかった。しかし、だからこそ、無事に生きることができた子どもに対し、生きられなかった子どもの分まで、社会全体で愛情を注いだのではないだろうか。
柏まちなかカレッジ学長 山下 洋輔