部活と聞くと、青春時代や学校の思い出と重なる方も多いのではないだろうか。生徒たちの汗と涙など、感動のドラマが想像される。一方で、いじめや暴力、死亡事故、教員の過酷な勤務状況といった部活の絶望的な状況がメディアでも取り上げられ、問題視されている。
本書は、部活を根本から問い直し、部活のこれからを考えるための拠り所となりうるものである。これまでの歴史や議論、法律、政策、統計、海外の事例などが紹介され、様々な視点から部活が総合的に論じられている。部活を好きな人も、嫌いな人も、教員、生徒、当事者ではない人など、部活に関心を持つすべての人に語りかけられている。
本書のタイトルにあるように、みんなで「部活のこれからを話しませんか」と促している。問題の多い現状の部活は、唯一絶対の姿ではなく、みんなで発展的に、建設的に、批判的に、自由に話していくことで、部活の未来を切り拓いていくことができるという著者の希望が示されている。
章立ては、なぜ部活は成立しているのか、部活はいつ始まったのか、なぜ部活は拡大したのか、いま部活はどうなっているのか、部活の政策は何をしてきたのか、生徒の生命を守れるか―死亡事故と体罰・暴力、教師の生活を守れるか―苛酷な勤務状況、生徒は部活にどう向き合っているか、部活の未来をどうデザインするか、となっている。
部活を丸ごと疑うところから始まる。部活は、法律で決められたわけでもなく、カリキュラムに含まれているわけでもない。にもかかわらず、当たり前の存在である。
なぜ部活は成立しているのか、また、なぜ現状のように部活は拡大してきたのか。歴史を丁寧に振り返って考察している。
そこから見えてくるのは、日本の教育や社会の姿であった。
部活は大規模化し、教員や学校の負担は大きくなり、部活を学校から地域に移そうという議論も繰り返されてきた。総合型地域スポーツクラブの育成など、部活の地域移行が政策としても進められてきた。しかし、今も部活は学校に残っている。
そもそも、なぜスポーツが学校に結びついたのか?
著者は、人格形成説、身体形成説、スポーツ文化説を否定し、部活が「自主性」を育み、戦後民主主義教育を実現できると信じられていた点に注目する。
しかし、実際の部活では、「自主性」の理念が実現されていない矛盾もあぶり出す。生徒指導のため、部活は学校から必要とされてきた。「不良×部活=感動」のメディア戦略が生まれ、今に続いている。
部活への外部人材の活用について、自民党は年内に制度の骨格をまとめて政府に提言し、関連法整備を目指すというニュースを聞いた。本書で紹介された大阪市の部活外部委託案についての議論が参考になる。外部委託では、現状の教員が肩代わりしてきた労働への財源の確保が必要となり、部活の規模縮小の可能性を示唆している。
最後に、著者は「楽しむ練習」としての部活を提案している。人生を楽しむための練習場所としての部活だ。楽しむ練習といっても、自分のことばかりでは、部活は成り立たない。他の部員の意見を受け止めたり、自分の意見を修正したりしながら、合意を形成していく。教員は、生徒の決定やコミュニケーションを支え、経験をふり返りや気づきを促す。