以下、『BE-COM 1月号 vol.206』(2010.1.1 BE・COMときわ通信発行)に掲載より引用
【元禄時代にヒントあり】
忠臣蔵は、日本の季節を知らせる年中行事のようだ。年末、ドラマなどでご覧になられた方も少なくないであろう。この忠臣蔵の舞台は、約三百年前の元禄の世。江戸幕府五代将軍徳川綱吉の時代であった。この元禄の世を調べると、現代社会を読み解くヒントがある。なぜなら、現代とよく似ているのだ。歴史から学ぶ姿勢で、この時代を治めた徳川綱吉の政治を紹介したい。
徳川綱吉といえば、「生類憐れみの令」を出した将軍として記憶され、非常に評判が悪い。自分の干支でもある犬を過剰に保護したため、人々を苦しめたと教科書でも説明されている。小判に含まれる金の量を減らして、経済を混乱させたといった指摘も受けている。
しかし、これらの徳川綱吉評価は、正しくない。運悪く、大地震、大火事、挙句の果てには富士山大噴火。天災は将軍の不徳、つまり政治が悪いのが原因と考えられていた。財政悪化、貨幣経済の浸透によって、経済の仕組みも変化していた。綱吉は、時代の大転換期と向き合った将軍であったのだ。少子高齢化、グローバル化、環境問題、国の財政問題、「百年に一度の経済危機」と言われるほどの不況。問題が山積みの今日では、綱吉の政治が見直されている。
【元禄時代とは】
元禄の世は、いわばバブルの時代であった。農業技術の進歩と減税により、人々の暮らしは豊かになった。衣類は、麻から綿に。綿を製造する過程で、綿実油が取れる。それを使って灯りをともした生活に。寝る時間が延長されたので、夕食をとるようになった。それまでは、一日二食であった。消費経済に移行し、貨幣も浸透していった。大阪や京都を中心に一般人の文化も花開いた。
バブルなので、米やその他の商品を売買して儲けを得る商人が増えてくる。投機的な商人は、価格をつり上げたり、「空売り」をしたり、まるで現代と変わらない状況だ。やがて、倒産する商人が増え、バブルは崩壊した。当時の対応も、現代と同様に、法整備と道徳心を育むとのことであった。法整備には、家柄ではなく才能によって選ばれた将軍の側近が活躍した。前述した小判改鋳も、バブル崩壊後のデフレ回避政策にあたる。そして、道徳心を育むための政策が、徳川綱吉の真骨頂といえる生類憐みの令であった。
【生類憐みの令の真意】
生類憐れみの令は、二十五年間に一三五回出された一連の法律をさす。この法律のせいで重罪になった例は、五万件と言われるが、実際はほんの数件である。それも重罪の対象は、ほとんどが武士であった。庶民を苦しめたわけではない。綱吉が子どもに恵まれなかったので、寵愛している僧侶の助言に従ったと言われている。しかし、この説には何の根拠もないことが研究によって明らかにされている。
この生類憐れみの令と関連して、捨て子禁止令や捨て病人禁止令が出されている。当時は、捨て子や捨て病人が多く、人々は仕方ないこととして助ける様子はない。さらには、喧嘩して、人を殺すことも珍しくなかった。殺人を武勇伝のように語り、戦国の世の名残を惜しむような輩が多かった。野犬を切り殺して食べる。ゴミは、そこら中に捨てる。当時世界一の規模を誇った百万人都市の江戸を治めるために、治安、公衆衛生、福祉の問題は焦眉の課題であった。
徳川綱吉は、外から規制するだけではなく、人々が自発意的に「良い」行動を起こす社会を構想した。重要な役割を果たしたのが、教育である。「良い」の基準が儒学であり、仏教であった。綱吉は、自らも儒学の講義をし、昌平坂学問所を設置するなど学問を奨励した。生類憐みの令は、人々に慈悲の心や道徳心を育むために、綱吉が発したメッセージであったと考えられる。
【戦争、土木から教育・文化へ】
江戸幕府は、豊臣家を滅ぼして以来、戦争のない太平の世になった。江戸初期は、戦乱で荒れた町を、新たに建て直す建設ラッシュであった。元禄時代になると、一通りのインフラは整備され、人々の暮らしも豊かになってきた。そこで、徳川綱吉が示したのが、教育・文化への取組みであった。地方でも、学校の整備や歴史の編纂が進められた。公共事業が、戦争・土木から文化事業に移ったのである。
江戸時代は「助け合いの社会」とも言われるが、この基礎を築いたのは綱吉である。人々の内面にまで踏み込んだ政策をとった。「犬を食べる」と聞き、抵抗感のあるあなた。この感覚は、徳川綱吉が苦労して育て上げた感覚なのです。
( 山下 洋輔 )