ハックルベリーブックスにて、長野ヒデ子絵本原画展を見学。
『ひらがなにっき』の原画を見ることもできました。おばあさんが、苦労しながらも、自分の名前を漢字で書き、孫に手紙を書くにいたるまでの話です。
教育学の研究で、夜間中学や識字教育に関わっている方のお話をお聴きしたことはありましたが、あらためて、「学ぶ」ことや「生きる」ことについて考えさせられました。
識字教育とは、字を書けるようにすることではありません。
パウロ・フレイレは、ブラジルの貧しい農村の字の読めない農夫たちに、自分たちの境遇を考え、自分の暮らし、生活を変えていく力としての言葉の読み書きを教えました。読み書きを通して、人は現実を認識し、世界を変えるために立ち上がるようになるのです。
第一次大戦後、フランスで展開された児童中心主義教育の一つであるフレネ教育では、「自由作文」を大きな柱とし、学びの出発点としています。
子どもの感じていることや言いたいことを、言葉に閉じ込めるのではなく、言葉によって子どもを解放するという考えです。作文というより、生活表現と言えます。
私は高校の教員を辞めた後、「自分史」を研究していました。
「自分史」とは、自分と歴史との接点を書くものです。
定年退職を迎えた「団塊の世代」の経験・技術の伝達手段として、注目を集めています。また、自分の経験を整理し、他者と共有したいという思いを持つ若い世代の書き手も増えています。日々、新たな自分史が書かれ、それらを蓄積していく仕組みも整ってきています。自分史という形式で、膨大な資料が存在しています。
「自分史」は、大正時代の生活綴り方から、戦後の生活記録、そして橋本義夫のふだん記といった文章運動の系譜を受け継いでいる一面もあります。
自分史の文章運動としての背景をたどってみます。
1872年の学制により、作文が小学校に取り入れられました。当時は、手紙や書類の作成のための実用を重視したものでした。1900年の小学校令により、作文が綴り方に改められ、実用中心から題材が広がりました。鈴木三重吉は、綴り方を「人間教育」の一つとして取り扱いました 。『赤い鳥』の影響もあり、学校教育の現場で生活の現実を綴る生活綴方運動が広がりました。
戦後、生活記録運動が展開されました。1951年に出版された無着恭成編『やまびこ学校』(百合出版)は大きな反響を呼び、子どものみならず、労働者や主婦など大人への綴り方運動へと広がりました。サークルやグループの中で書かれ、個人の体験の社会的意味を認識し、ありのままに書かくことが目指されていました 。この生活記録運動の退潮後、1960年代に八王子で生まれた「庶民の文章運動」が、ふだん記運動です。
「ふだん記」は、ふだん着とかけています。枠やスタイルは教えず、「下手に書きなさい」と励まします。誰しもが、それぞれの生活や経験を持っていて、その下には、それぞれの人間性があります。その生活と人間性を、自分の言葉で表現していく運動でした。
日本でもフレネやフレイレのような実践が広げられていました。
柏まちなかカレッジを始める時に、「自分史」や大正時代の生活綴り方運動にまでさかのぼる「綴る文化史」の流れを意識していました。
・誰しもが、それぞれ貴重な経験を持つ先生であること。
・知識を伝達する銀行型教育ではなく、対話し、協働・連帯していくこと。
・その経験を表現するための手段を持つこと。
・その経験を発表することで、現状を考え、自分の暮らしや社会を変えていく力を持つこと。
あらためて、これまでの活動を振り返ってみようと思います。
フレイレの示す教育は、知識を伝達する教育ではなく、対話を重視した教育です。
教育界ではアクティブ・ラーニングの話題で盛り上がっていますが、経済界から要請された知識を身に着けるためのテクニックとしてだけでなく、批判的な精神や社会をより良くしていくための教育についても見直していく必要があると思います。