約30年前、私が小学生だった時に、児童会会長選挙で「宿題をなくす」ことを公約に立候補した先輩がいた。
選挙公約なんて、大人の世界でも、まだ一般的でなかったと思う。
月亭可朝さんの「一夫多妻制」くらいしか知らなかった。
「勉強は授業の中で完結させるよう先生方に求める。放課後の時間を、私たちに取り戻す!」といった趣旨。
今でも通用する内容だ。
二度、落選。
現在、話題になっているような宿題についての議論も、教室で起こった。
子どもの中にも保守派/穏健派/良識派がおり、社会を学ぶ機会になった。
「良い学校にします」といった演説は他にもいたが、具体的で、明確なビジョンを示した候補者は、彼だけだった。
数年後、その弟が同級生で会長に当選。
彼の演説の冒頭は、
「私は『宿題を無くす!』
とは言えませんが、•••」といったものだった。
寂しかったのを覚えている。
いま、私は議員となり、子どもたちの声を政策に取り入れようと努めているのは、この経験があるからだと言える。
この投稿では、宿題の是非を論じるものではありません。
あれから30年が経ち、もう授業の形そのものが変わってきています。
「反転授業」といって、家で講義ビデオなどを見たり、教科書を読んできて、学校では話し合うといった形も現実的になってきました。
総合的に考えなければならないと思います。
夏休みを短縮する自治体もあり、宿題と同じような議論が繰り広げられています。
夏休みだからこそ、普段できない経験をしてもらいたいと、私は考えています。
教育格差についても対策を講じ、すべての子どもが経験から学ぶことができるよう支援していく体制を整えていくべきです。
夏休みに関しては、学童の問題もあがります。
キャンプを受け入れてくれる団体を充実させている地域があり、前向きな解決策だと思いました。
夏休みだからこそ経験できる学びまはあると思います。
※参考
・「夏休みの宿題はいらない」 公立小学校の現役校長が変えたい“昭和的な”教育
・苫野一徳氏 twitterより
要するに、宿題については「それがどんな宿題であるか」(勉強嫌いを増やすようなものか、探究心を大事にし育むものか)ということと、「学校や社会は一人ひとりの子どもの学びをどうとことんサポートするか」という観点を持って考えなばならないということ。宿題ありかなしかという単純な話ではない。